3月6日例会


会長の時間

昭和天皇の涙

 昭和24年5月に九州への御巡幸として佐賀県では陛下とご親交のあった因通寺に足を運ばれたときの話です。

 因通寺には洗心寮(せんしんりょう)という引揚孤児の寮がありました。戦争孤児や引揚者の境遇を気にかけておられた昭和天皇は、佐賀県で戦後最初の御巡幸先にここを望まれたのでした。

 寮に入るなり、陛下は子どもたちに親しく声をかけつつ、進まれました。子どもたちも、ゾロゾロと後をついて回りました。

 陛下は弾定の間と言われる部屋の前で足を止め、3人の女の子を見つめられました。やがて陛下は引き込まれるようにして、陛下をお待ち申している3人の真ん中の女の子に話しかけられました。

 見ると、女の子が手にしていたのは位牌でした。「お父さん、お母さん?」陛下は話しかけます。位牌は二つでした。「はい、これが父と母です」と女の子は答えます。「どこで?」「父は、ソ満国境で名誉の戦死を遂げました。母は、引揚の途中で病のため亡くなりました」「お淋しい?」女の子は首を横に振って口元を引き締めました。「いいえ、淋しくありません。私は仏さまの子どもですから」陛下は少し驚いて女の子の目を見つめたが、女の子はひるまずに続けました。「仏さまの子は父にも母にも、お浄土でもう一度会えるんです。だから父や母に会いたくなったら、私は仏さまに手を合わせます。そして、父と母の名前を呼ぶんです。すると父も母も私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるんです。私は淋しくありません。私は、仏の子です」陛下は女の子をしばらく見つめたあと、部屋に入り右手の帽子を左手に持ち替え、空けた右手で女の子の頭をゆっくり時間をかけて撫でつつ、なおも話しかけました。「仏の子どもはお幸せね、これからも立派に育ってくださいね」と言うなり、畳の上に大粒の涙が一つ二つ雫れ落ちました。すると、ふいに女の子が叫びました。「お父さん……」そこにいた大人たちは言葉を失くして顔を覆い、海千山千の新聞記者までもが、嗚咽を禁じ得ませんでした。陛下は剛を備えた武人の一面もありましたが、この時ばかりは溢れる涙を隠そうともしませんでした。

 皇居にお帰りになった昭和天皇は、この時のことをこう詠まれております。

 「みほとけの 教へまもりてすくすくと 生い育つべき子らに幸あれ」 あまりにも有名な佐賀・洗心山因通寺のお話でした。

 以上会長の時間でした。


内部卓話

パストガバナー 千葉 憲哉 様


地域発展委員会 令和7年3月1日(土) 西諫早公民館

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