2月6日例会 新入会員卓話


会長の時間

 皆様、こんにちは。会長の挨拶を務めます。

 一昨日、昨日と東京お台場のビッグサイトに業界の展示会に行ってまいりました。4日の午後と5日の午前中、展示会場の中を練り歩き、午後は楽しみにしていた自由行動。

 私は皆と離れ、支配人を連れ浅草・浅草寺でお参り。

 その後、靖国神社で英霊たちの御霊に参ってまいりました。3度目となりますが、いつも吸い寄せられるように向かうのが「遊就館」の中の藤井一中尉の遺書の展示の場所です。彼の仕事は若き特攻隊員に特攻隊として精神を教育することでした。

 藤井中尉は、自分は安全な場所にいて、教え子たちは次々と特攻隊として死んでいく。その教え子たちに「必ず自分もあとに続くから」と誓っていました。彼は隊員たちからの人望もとても厚かったそうです。しかし当時、妻子ある教官の特攻志願は簡単には認められなかった。何度も何度も嘆願書を提出するも採用されなかった。

 夫の固い決意を知った妻福子さん(24歳)は、「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、貴方は思う存分、活躍できないでしょうから、一足先に逝って待っています」という遺書を残して3歳まぢかの長女一子と、生後4か月の次女千恵子に晴れ着を着せ、自分たち母子の3人の体がを離れないように紐で固く結び、厳寒の荒川で投身自殺をはかりました。妻子の死を知った藤井中尉は、指を切り、血染めの嘆願書を特攻本部に提出し、とうとう受理されました。

 藤井中尉の死んだ我が子への遺言があります。

 「12月になり冷たい風が吹き荒れる日、荒川の露と消えた命。母と共に血の燃える父の意志にそって一足先に父に殉じた、哀れにも悲しい、しかも笑っているように喜んで母と共に消え去った幼い命が、愛しい。父も近くおまえ達の後を追って逝けることだろう。必ず今度は父の暖かい胸で抱っこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてね。一子は千恵子ちゃんが泣いたらよく子守をしなさい。ではしばらく待ってて頂戴。さようなら。」と決して読まれることのない、死んだ娘達への手紙となりました。

 翌年の5月28日早朝、藤井中尉は2人組の出撃機で飛び立ち、「われ突入する」の電信を最後にアメリカの空母めがけて突撃したという。29歳という若さでした。

 彼は掛け軸に書をしたためていました。

 「命を捨て、国を護る。そうして尚また、倒れた後も、その心は変わらない」

 若い彼らが、そして親子が命を懸けた日本。

 天国で今、どういう気持ちで見てくれているのでしょうか。

 以上、会長の時間でした。


新入会員卓話

会員 田中 智幸 君

 

(1)これまでの生い立ち及び思い出深い出来事について

・ 1971年(昭和46年)10月25日生、4人兄弟の二男として生まれました。

・ 出身地:諫早市高来町金崎という地域で、金崎は私の幼少期には大工さんが多い地域と言われておりました。実際、家の周りには大工さんが多くいらっしゃったのを憶えています。私は小さい頃から小柄で非常に痩せていたこともあり、周りの方々から「ごはんをもっといっぱい食べんば大きくならんぞ!」とよく声をかけられていました。

・ 小中学校は地元高来町の湯江小学校、高来中学校でありまして、小学校4年生から軟式野球を始め、中学校でも野球部に所属していました。

・ 高校は諫早高校へ進学し、特に目立つこともなく普通の高校生活を送りました。北ロータリークラブの舟津くん、宅島くん、平野くんとは諫早高校の同級生になります。

・ 高校卒業後は、福岡大学経済学部へ進学しました。とにかくアルバイトにあけくれた4年間であり、あっという間の4年間でありました。

・ 大学卒業後は、㈱長崎銀行に入行して7年1カ月勤務させていただきました。諫早支店在籍時には北ロータリークラブ:黒田茂さん(当時:支店長)、山本健一さん(当時:営業係の先輩)とは短い間でしたが一緒に仕事をさせていただきご指導いただきました。大変お世話になりました。

・ 長崎銀行退職後は、県内の保険会社に6カ月勤務後、縁あって平成14年11月:たちばな信用金庫に入庫しました。多良見支店:3年2カ月、島原支店:2年4カ月、本店営業部:2年3カ月、長崎中央支店:1年11カ月、小野支店:2年、栄田支店1年10カ月、西大村支店:1年8カ月、住吉支店:6年3カ月、北支店:10カ月(9店舗目)、支店長としては4店舗目となっています。

(2)思い出深い出来事について

・ 大学2年生の夏:富士山頂上へ登山をしました。富士山への登山のきっかけは、友人と富士山を見に行こうということで見物がてら5合目まで車で行ったところ、天気も最高であり頂上も見えることから登ろうかということになり、午前10時から勢いで登り始めました。事前の準備も全くしていなくて運動靴での登山でありましたが、若かったこともあり頂上には午後2時頃約4時間で登頂。頂上からの眺めは天気も良く最高でしたが、頂上付近にはまだ雪が残っており非常に寒かったのを憶えています。その後、25歳の時にも日の出を見に再度頂上まで登山しております。

・ 39歳での初フルマラソン参加し完走:第30回大会いぶすき菜の花マラソン タイム…5時間36分3秒、順位…6887位(18192人中)。参加したきっかけは、実弟からの誘い。五島夕焼けマラソン(ハーフ)を完走できていたこともあり、軽い気持ちでエントリー。

しかしながら、菜の花マラソンのコースは起伏が大きい難コースであり最初の10キロで参加したのを後悔。その後、ド根性で何とか37キロ地点まできたものの、そこから約1キロに及ぶ急激な上り坂に心が折れる。最後の5キロはほぼ歩きながらのゴール。これ

までの人生で一番きつかった経験であったものの、完走したことでの達成感も一番であり、また来年も参加したいと思い再チャレンジを決意。以降、これまで合計17回のフルマラソンに出場し全て完走しています。ちなみに、先月1月12日に開催の「第42回いぶすき菜の花マラソン」に参加し完走してきました。目標は5時間を切ることでしたが、結果は5時間28分でした。

新入会員卓話

会員 武田 己尋 君

 

 4月に入会しました武田です。皆さんご存知だと思いますが、武田義憲の息子です。

 私は、藤本さんとは違って北クラブの皆様には、青年会議所の先輩や後輩そして仕事のお客様や父の知り合いで、知っている方が多いので、良かったと思っております。

 まだまだ分からない事ばかりですので宜しくお願い致します。

 卓話という事で、私自身の事や仕事の事など話をさせて頂きます。

 昭和47年10月生まれの52歳です。よく老けて見られます……。

 諫早小学校、諫早中学校、高校は鎮西学院高校で、卒業後は、福岡の写真の専門学校へ進みました。

 小学校6年生の頃から身長も伸び、足もそこそこ速くなり校内のマラソン大会で10位以内に入った事により走るのに自信がつき、中学校で陸上部に入り、毎日部活動頑張っていました。こう見えても中学3年の時に、中体連で400mリレーに出させて貰いました。結果はそこそこ……。部活キツかったですが良い思い出です。

 中学3年生の時、諫早農業高校に進学しようか、鎮西学院高校に進学しようか悩んでた時に、テレビドラマでラグビーがテーマの「スクールウォーズ」があってまして、はまって見てました。その影響でラグビーが好きになり、諫早農業高校でラグビーしようと思っていましたら、担任の先生に職員室に呼ばれまして、「武田君、農高に行くより、将来の事考えたら鎮西学院高校に進学した方が良いよ」と言われまして、鎮西学院高校に進学する事に決めました。

 高校では、ラグビー部が無かったので、父に相談したら、「空手ばすれば!」と言われまして、空手部に入部しました。事情があって途中で辞めてしまいました……。

 高校生活で一番恥ずかしい出来事がありまして、3年生の時、体育祭の練習で、クラス対抗のリレーに選ばれまして、バトンを貰って走ってたら、カーブの所で友達が「武田?!」って叫ぶので、調子にのって手を上げたら、バランスを崩して転んでしまい、全校生徒の前で恥をかいた事を覚えてます。でも、最後まで一生懸命走り切りました。

 高校生活は、先生方にも恵まれ周りの同級生や友達にも恵まれ充実した3年間でした。

 高校を卒業して、写真に興味があったので福岡の専門学校へ2年間通いました。学校では、スタジオがあり、自分が撮りたい物を撮影したり、たまにモデルさんを呼んで撮影したり、外へ出て色んな場所へ行って風景や建物や人物を撮ったり、モノクロフィルムで撮影してましたので、学校へ戻って自分でフィルムを現像して、モノクロプリントまで仕上げる事をしてました。自分は、カラーよりモノクロの方が味があって好きでしたね。

 2年間で一番辛かったのは、みんなが人物写真を撮っても後姿ばかりなので、先生に100人の顔写真を撮ってきてって言われたのが一番辛い思い出です。

 卒業後は長崎市内にあります、スタジオ アイリスという写真スタジオへ就職しまして、そこでアシスタントを5年間務めました。そこでは、長崎浜屋・ハウステンボス・S東美等、コマーシャル撮影や建物やモデルさん等色々な撮影するスタジオで頑張っていました。

 慣れてきた頃、父に「そろそろ辞めて、諫早印刷に来ないか?」と言われ25歳の時に今の会社へ転職しました。

 最初の2年間は、うちにも写真スタジオがありカメラマンも居たので、アシスタントをしていましたが、営業をしてくれないかと言われまして、今に至っております。

 営業という仕事をした事無かったので、現社長の?渡に1年間付いて色々教わりながら回りました。人と話すのが好きなので初対面の方でも問題ありませんでしたが、後は1日でも早く仕事を覚えるので一生懸命でした。

 今では、営業という仕事、面白いなぁと思っております。

 印刷業という仕事は、打ち合わせから始まり、お客様がどのような印刷物のご注文かを聞き、それを会社にもち帰りデザイン・編集担当に伝えて、印刷へ入る前に、ご希望通りになってるかを確認して貰う為に校正を出します。

 印刷物によっては、1回の校正で終わる事もありますが、お客様が納得いくまで何回も校正のやり取りする事もあります。

 例えば、小学校や中学校の学校新聞のご注文なんかで、最初の校正を出して、校正の確認が終わりました!と連絡頂き校正の戻りを取りに伺って修正箇所を聞いて、後日その修正を見せる為に2回目の校正を出しますが、修正が入った所だけを確認するんじゃなくて、もう一度全体を確認お願いします。と言います。何故かと言いますと、1回目の校正の時に見落としがある場合があります。自分達が間違いに気付いた場合は、赤字で記入しますが、専門用語とかお客様にしか分からない言葉などは、原稿通りに印字しますので、お客様には、もう一度全体を確認お願いします。と言って渡します。たまに、確認もれ等あり再度全体見直しといて良かったという事があったりしますのでお願いしといて良かったと思う事があります。

 印刷した後で気付いても遅いので、最終的に確認をして貰います。そういったのでミスを無くすようにしています。

 30歳くらいの時に、現社長の?渡が青年会議所に居まして、?渡が卒業する年に自分も入会しまして、毎月の例会で国歌を歌う団体…何なんだろう?って思って、今すぐにでも辞めたいって思いつつ40歳の卒業まで居させて頂きました。青年会議所でも色々な経験をさせて頂きました。地区大会や京都会議や、諫早青年会議所が主管で長崎ブロック大会等、色々あり勉強になりました。長崎県内の青年会議所の方とか、他県の方とも知り合いになったりと、今でも連絡取り合ってる方も居ますし、青年会議所で勉強にもなり、知り合いもたくさん出来て、入会して良かったと思っています。

 話は変わりますが、仕事であるスーパーのチラシをさせて頂いてますが、毎週毎週折り込みチラシがありまして、チラシの開催日によって変わりますが、基本的に月曜日に1回目の校正出し、火曜日に戻り、水曜日に2回目の校正出し、木曜日が最終校正の戻り、そして、最終校正戻りの時も、変更や修正が入りますので、金曜日の朝から全部門10カ所の修正等を1つの校正用紙にまとめて、それを、デザインへ説明します。

 修正が終わったら、修正をされた部門へ午前中のうちに確認して貰ってから、午後から印刷へ入ります。

 月曜日から金曜日まで、バタバタで回っております。

 最初に各担当の方に原稿用紙を配って、原稿締め切りがありますので、締め切り前に原稿をくださる担当者も居れば、締め切り過ぎているのに、原稿書いてない担当者とか居まして、声かけをしたりして何とか校正出しております。担当してから3年くらいになりますが、 まだまだ慣れないですね。

 大きいスーパーなので、やはり他社の印刷屋さんが来て、チラシの見積りさせて下さいと来るみたいで、うちより安く見積り持って来られたみたいで、部長さんに「武田さん、昨日○○印刷の方見積り持って来られて、諫早印刷さんより、安かったけど、武田さんが色々仕事中にもかかわらず、カートを回収してくれたり、買い物カゴを回収してくれたり、棚卸しの時は、閉店後手伝ってくれたり、色々してくれて助かってるから、その印刷屋さん断ったよ」と言ってくださり、お手伝いしてて良かったと思いました。ここまでしてくださってるので、今後も自分が出来る事は、お手伝いしていこうと思います。

 前年度、石本委員長より4月?6月まで短い期間でしたが、クラブ会報委員会の事を優しく教えて頂き迷惑おかけしながらも自分なりにやってまいりました。石本委員長、ありがとうございました。

 今年度も、まだまだ分からない事ばかりなので、先輩方や牟田委員長に教わりながら、迷惑おかけする事もあると思いますが、田島さんと3人で1年間頑張りたいと思っております。

 宜しくお願い致します。